昭和56年4月16日 前講:二代親先生

「真の道の心得」
一、神国の人に生まれて神と皇上との大恩を知らぬこと。
一、天の恩を知りて地の恩を知らぬこと。
一、幼少の時を忘れて親に不孝のこと。
一、真の道におりながら真の道をふまぬこと。
一、口に真を語りつつ心に真のなきこと。
一、わが身の苦難を知りながら人の身の苦難を知らぬこと。
一、腹立てば心の鏡のくもること。
一、わが心の角でわが身を打つこと。
一、人の不行状を見てわが身の不行状になること。
一、物事に時節を待たず苦をすること。
一、まめな時家業をおろそかにし物毎におごること。
一、信心する人の真の信心なきこと。

本日はおめでとうございました。えー、只今、親先生ご祭主のもとに滞りなく春の御大祭、奉仕させて頂きました。えー、思いますと、ちょうど1年前の今日は、親先生が大変、体が悪くて、えー、御大祭が仕えられるのがやっとという状態でございましたんですが、おかげさまで、大変健康なおかげを頂かれまして、今日の御大祭を迎えさして頂きました。
えー、今朝ほどから、えー、まあこうやって人前で話すのも恥ずかしいようなお夢を頂いて、ほんとに自分の心にどうしてこのような見苦しいというか、浅ましいというか、ものがあるんだろうかと思うほどしのお夢頂かして頂いて、普通でしたら目を覚まして頂いて、「おい、新聞持ってこい」ていうわけですね。ところが、とてもそげな心境になれないわけですよ。
ほんと、どう、自分なんという人間だろうかと、ほんとに思いましたよ。このような浅ましい自分が助かるだろうかと思うんですね。ところが不思議にあの、そういう心境にならせて頂くと、ほんとに例えば、目の前に出されるご飯一つが、本当に自分のような者にこんなもの食べさして頂いてよかじゃろうかと、こんなように親切にして頂く家内を頂いてよかじゃろうかと思うんです。
普段は「おーい、お茶持ってこい、おい、新聞持ってこい」て言うんですけれども、とてもそんな心境になれない。そういう自分を見さして頂くときに、ははあ、こういう神様と私とが交流するのに、こういう方法があるなと思うんです。ほんとに吾屑の子というかね、吾は、自分ほど罪深い者はないという自覚に立ったときに、初めて目の前の一切のものが拝めてくるという心境があるな、と初めて気づかせて頂いたんですが。
ところが、このような悟りではですね、本物ではない。親先生がおっしゃる、これは自分だけで慰めておるんですね。結局マスターベーションにすぎん。キリスト教でいう、いわゆるあの「罪の子われ」という自覚に立っての助かりでは、ほんなものではない。合楽でいうほんとの助かりていうのは、私共と神様が、合い楽しみ合うような世界、それこそ喜び歓喜満ちるような助かり方では、本当の悟りではないということを、改めて気づかさせて頂いたんです。
私のような、このような悟りではですね、ほんとにあの、助かりが助かりにならないんですね。ほんとにこちらも喜び神も喜びというような助かり方。ま、今度の御大祭を迎えるにあたって、ほんとにそこに私の一つの精進不足を感じさして頂いたわけですが、今日は一つ、みなさん、親神様と私ともが、ほんとに交流し合えるような喜びの御大祭に締めくくって頂きたいと思います。
私のような悟りでは、ほんなものではない。キリスト教のような、あの、助かりではほんとの助かりではないということを、改めてここで申し上げて、前講にかえさして頂きます。ありがとうございました。